■8月15日、全関労裁判 病院勝訴の記念日について |
平成13年8月15日
職員各位
事務部長 篠塚一子 8月15日、全関労裁判 病院勝訴の記念日について 8月15日は、病院の祝日です。 8月15日は、平成3年、武谷病院時代に全関東単一労働組合(略称 全関労)を名乗る二名の不良職員を解雇した日です。 病院の歴史を語るうえで、全関労問題をなくしては語れません。病院の歩んできた歴史を知ることは、職員として大切なことです。 全関労問題とは何なのか、また全関労問題を風化させない為にも、職員は真実を知り、病院の人事政策が正しいことを再確認することが必要です。現在、私達が安心して働ける職場環境にあるのは、全関労問題に病院が勝訴し、彼等が病院から完全に排除されたからです。 病院の勝訴は労働裁判史上でも極めて稀なケースです。 一審では病院が敗訴しましたが、平成11年8月の高等裁判所の判決で病院が勝訴し、 翌12年1月に最高裁への上告が棄却され、病院の完全勝訴が確定しました。 平成11年の奇跡とも言える病院が勝ち取った判決に、弁護士の山近道宣先生は、 “正義は必ず勝つ!”ということを確証したと職員の前で熱く語っています。 全関労問題とは何なのか? 以下は、平成3年の白川・清水解雇後に、病院が近隣の方に配布したチラシの全文です。 全関労問題について、簡潔に述べられていますのでここに引用します。 全関東単一労働組合とは 全関東単一労働組合(略称 全関労)は関西系の団体で、 関東地方に点在する新左翼系活動家によって支えられる総勢約30名程度の組合であるといわれています。 全関労との関連が噂される統一共産同なる過激派組織は今年、国会傍聴席より海部首相に靴を投げつけ逮捕者を出しております。 全関労は関東各地で、病院や中小企業を中心に、法律をたてに企業破壊活動を行い、労働争議のための労働争議を繰り返しております。 そのやり方は陰険でずるがしこく、この地域でも所沢近辺の企業や新聞社が被害にあっております。 当院では三年前より、就業時間中に「戦犯ヒロヒト」「天皇制打倒」などの内容のビラを配布したり、 集団で押し掛け七十二才にもなる当院院長につめよったり、管理職に怪我をさせたりの行動を繰り返してきました。 当院は、両名に正当な組合活動からの逸脱行為が多々あり、また職務上にも怠慢行為が見られることから、当院の秩序を守り、医療を守り、患者さんを守るためやむなく2名を解雇いたしました。 武谷病院 広報担当 全関労は、解雇後も病院玄関前や理事長宅に押し掛けて、病院に対しての嫌がらせ行動を起こし続けました。 彼等は、病院勝訴確定後、平成12年11月の50周年記念パーティーにも会場前でも、破廉恥な妨害活動を起こしています。 なぜ、全関労問題を風化させてはいけないのか? 病院の経営陣と幹部職員が全関労問題を思い起こし、 病院の人事政策のあり方を再確認し常に戒めとするためです。全職員が全関労に対する正しい情報を共有することにより、 病院への理解が深まることと思います。 次の説明文は、全関労問題について6月に総務課に入職した高橋秀行さんがまとめたものです。 高橋さんも含め、全関労を全く知らない職員の方は、全体の約3割に達するということです。 少し長くなりますが、最後まで目を通してください。 ********* 全関労事件を振り返って 総務課 高橋秀行 1.本パーティーの目的 1988年から昨年まで10年余当院は非常に厳しく、長く、苦しい経験を致しました。 全関東単一労働組合(全関労)事件です。 その事件が終結して1年余が経過しました。 本日在籍されている職員の約3割の方はこの事件をご存知ないでしょうし、 知ってらっしゃる方も、ああそういう事もあったなあと思われているかもしれません。 この事件を当院は忘れてはいけない、風化させてはいけないということで、本日の行事が行われておりますが、 なぜこの事件を忘れてはいけないのか、風化させてはいけないのか。 苦しかったことは、早く忘れ、明日に向かって頑張ったほうが良いと思われる方もいらっしゃるかもしれません。 そんな事は忘れたよとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。 しかし、この事件が如何にして起きたか、その時の当院の状況・環境はどうだったか、 当院は全関労に対してどういう対応をしたか、そしてどちらに正義があったかを知ることで、 当院のフィロソフィ(原則)、歴史、目指す方向、考え方等が職員の方々に分かって貰えるものと考え、本日お集まりいただきました。 全関労はこんな事をした、全関労は怖い、全関労は憎たらしいという事もそうですが、 それだけではなく、もっと重要な事は、この事件を通じて当院が経験し、 考え、行動した事を明日からの当院の発展の礎としなければならないという事とこの事件のおかげと言ってはなんですが、 より迅速に経営の近代化ができたと言う事です。 また事件を振り返りますと数々の反省材料も浮かび上がってきました。 なぜ首謀者を採用したのか、なぜ初期の段階で対応できなかったのか、なぜ首謀者に賛同する者が出てきたのか等々。 しかしながら、この反省材料も教訓として今日の、当院の運営の中で生かされていると自負しております。 2.事件のあらましと当院の対応 (1)組合決起と当時の状況 88年の春に当時の白川節子視能訓練士が「ネットワーク」というビラを配布し始めた頃から出来事は始まり、ビラは当院あるいは個人に対する誹謗、中傷、主観的意見の媒体とされ、以後何かあるたびに一方的に配布されました。 彼女はその頃すでに全関労に所属し、当院でのオルグとして積極的に活動を行っていた模様で、 そのうちに清水真理子看護婦ほか何人かが加わるようになりました。 当院では全関労以前の1969年に東京医労連武谷病院分会(武谷労組)が発足し、要求については誠実に団体交渉を持ち、 職員が組合活動をしたからといって、そのことを理由に不利益な取り扱いをしたことはありませんでした。 これと同様に全関労の組合員についても不利益に取り扱ったことはありませんでしたが、同組合員は職員としての自覚に乏しく、 反省がなく、職務怠慢であったことが武谷労組と大きく違っていました。 88年3月、白川が休暇制度の取り扱いについて一方的で攻撃的な要求を機関紙「ネットワーク」を通じて行い、 また当時の総婦長にくってかかるようになりましたが、 この時点では彼女が共産主義思想をもつ新左翼過激派組織のメンバーだとは誰も気がついておらず、 開業以来、「家族的な雰囲気」の中で和気あいあいと業務してきた職員は、自分たちとは違う価値観と思想を持ち、 法律を悪用し、最終的には企業を倒産させることを目的としている人々がいるとは知らなかったか、 たとえそういうグループがあるということを話には聞いていたとしても、 まさかそういう人間が間近にいるなどとは想像もできなかったと思われます。 (2)過激な組合活動と当院の対応 彼女の活動は日々活発になり、それと共に同調する人も何人か出始め、 この年の末には試用期間中の組合員の看護助手が事情により採用を取り消された事を巡り、 10名近い人間が当院に押しかけ、その時初めて全関東単一労働組合(全関労)を名乗り、団体交渉を開けと激しく申し入れをいたしました。 ところが、この団体交渉後この看護助手は全関労を脱退し、依願退職してしまった事により、 全関労は怒り狂い、過激な行動を起こし始めました。 その後暫くなりを潜めていましたが、1989年末「ネットワーク」を配布し、 組合員も20名位になったところで、攻撃目標を現理事長とし、病院をつぶすことを目的に暴力的威嚇行為を繰り返し行ってきました。 当時の当院の状況は経営基盤の構築と施設・設備の改修が急がれている時期であり、 全関労事件の歴史と当院の近代化の歴史が丁度オーバーラップして推移しています。 この時代の当院は「患者さんのため」に「よく働く職員」が多くいましたが、 経営基盤の構築として看護基準の取得、事務業務・スタッフの充実、広報活動の実施、 コンピューターの導入そして診療単価の向上を目指しており、90年には診療報酬の改定により大幅な減収が予想される中、 医師達のコミュニケーションを取ることができるように、新医局室を設置し、病院改革の為に企画室を新設し、 病院と職員のコミュニケーションを良くする為に特大の掲示板を設置しました。 また同年の夏季の賞与も厳しい財政事情の中から、前年を上回る金額を支給し、 サービススタッフである事務部門の機動力向上の為、機構改革を実施し医療スタッフの環境整備に努めました。 このような事が以後、激しさを増してきた全関労の活動に対して反発する人々が出てきた事と無縁ではないと思われ、 彼らの活動が職場破壊と分かり始めたのだと思われます。 全関労と反対派の対立は日に日に激しくなり、その対象を病院側に転嫁して行う暴力的威嚇行為は著しく攪乱するものでしたので、 その首謀者である白川を譴責処分としたところ、全関労が再び団体交渉を求めて、来院するようになり90年の秋から91年の7月まで、 10数回団交を行い、その間、病院前でのビラまきやハンドマイクによる大音響の演説を繰り返し、いやがらせを行ってきました。 (3)組合の孤立化と終焉 この時期に行われた当院の創立40周年記念パーティでは、妨害や職員の不参加が心配されましたが、 当直等やむを得ず参加できない職員以外の全職員が出席し、滞りなく終えたことでこの時、 全関労に対して全職員が一枚岩になったといえるでしょう。 翌91年は全関労との戦いで当院が重要な判断をした年で、矢継ぎ早に賃金の改定、 賃金表の作成、病院公報の発行、人事制度改革、就業規則改定を行い、武谷労組と労使協定を結ぶ事により、同労組の支持が増え、 ついに全関労の支持者は皆無になりました。 ただ経営状況はまだ好転しておらず、このまま全関労とダラダラ対応していても得策ではないとの判断から、 問題解決の為、全関労組合員白川と清水を8月15日付けで解雇いたしました。 この時から全関労は連日病院攻撃を始め、 同時に八王子地裁に従業員地位確認等請求事件を提訴した事により以後は司直によって判断される事となりました。 その経過は、 1997年1月 一審当院敗訴 当院控訴 1999年8月 二審当院勝訴 全関労上告 2000年1月 上告棄却 二審の判決通り当院の勝訴 以上の通りであり、漸く、厳しく、長く、苦しい戦いが終わりました。 3.結び この時の勝訴した判決文の中に印象に残る文章がありましたのでご紹介いたします。 「患者の診療を目的とする病院では、患者を中心に機能するのであるから、職員間の信頼関係、使用者と職員との信頼関係が強度に要求される。」 この事が今回の全関労事件から学ぶべき大事な事ではないでしょうか、 スタッフ同士の信頼関係、医療スタッフとサービススタッフの信頼関係、経営陣とスタッフの信頼関係、 この関係を強固に築き上げておれば、この様な事件は起こり得ず、当院の目標である、 日本一の接遇サービスを提供する病院に速やかに到達するのではないでしょうか。 最後になりましたが、当時全関労との戦いでご尽力いただいた方々に、この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。
|